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第四話 『子どもに罪はない』 ◆雪臣

last update Tanggal publikasi: 2026-07-31 09:29:07

 電話を切ってから三十分ほどが経った頃、雨はすでに上がっていた。

 氷室メディカルセンターの入り口で、腕を組んで待つ雪臣の瞳が、鈍い光を帯びる。

 外来の受付時刻はとうに過ぎていたが、雪臣が事情を伝えて受け入れを頼むと、当直の職員たちは快く応じた。正面玄関の灯りも、自動ドアも、まだ電源を落とされてはいない。

 目の前に停車したタクシーから降りてきたのは、直人と、直人の母親と、そして初めて見る二十代前半くらいの女。

 電話で言っていた、田代に診察を依頼したいというのは、この女のことだろうか。

 直人が女と母親を先にセンター内へ入らせた。二人の背を見送り、自動ドアが閉まると同時に、雪臣を睨みつける。

「田代とやらに、すぐ診察できるように話は通したんだろうな? 氷室雪臣」

「……お前か。彼女を放り出したのは」

「相変わらず会話ができねぇ男だな。質問に答えろ」

「タマはここへ一晩入院する。雨の中ひとりで倒れていた。僕が、連れてきた」

 カツ、と小さく杖の音が鳴る。

 雪臣は直人へ一歩近づき、わずかに顔を下げてその目を見据えた。

「なぜ、タマをこんな目に遭わせた」

「お前に関係ないだろうが、雪臣。珠希は、ルリカ――俺の子を孕んでいる女を突き飛ばした。自分が不妊だから、くだらない嫉妬でもしたんだろうな」

 珠希が誰かを――まして妊婦を突き飛ばしたなど、にわかに信じられるはずがない。彼女自身が身ごもり、小さな命を何より大切にしていたからだ。失った直後でさえ、雪臣を気遣おうとした人間だ。

 センター入口の照明を受けて、直人のゴテゴテした柄のネクタイがぬらりと光った。

 雪臣の下瞼が小さく痙攣する。

「心配ではないのか」

「今日はよく喋るじゃねぇか。どうせちょっとすっ転んだだけってオチだろ。それに珠希は……あいつは一人でなんでもできる」

 会話が途切れ、静けさが際立つ。コオロギの鳴き声だけがやたらはっきりと聞こえた。

 小さく鼻を鳴らしてセンターへ入ろうとした直人。その腕を掴むため、雪臣は杖を取り落とした。カラン、と杖が地面を叩く。支えを失った右脚がわずかに揺らいでも、雪臣は直人から手を離さなかった。

「しつけぇな。そもそも、氷室の人間がなんで珠希を助ける必要がある。……へっ。まさか、未だに珠希を俺から奪い返したいのか、お前」

「……そういう話はしていない」

 珠希は――いや、人は誰の所有物でもない。

 まるで珠希を自分のもののように扱う直人の言い草に、雪臣は強い嫌悪を覚えた。

 直人に手を振り払われた雪臣は、バランスを崩してその場に膝をついた。

「おいおい、失望させるな。それで氷室の後継ぎか。仮にも氷室は乾より規模もでかいんだからよ、しっかりしてくれ」

 頭上から直人の冷笑が降り注ぐ。

 相変わらず、後継者だの規模だの、自分の地位や所属で軽率に人間の価値を推し量る男だ。そこに中身が伴わなければ、それは本人の強さではないだろう。

 落ちた杖へ手を伸ばそうとしたそのとき、白衣の女が現れ、杖を拾い上げて雪臣に肩を貸す。――医師の田代沙耶(たしろ・さや)だった。

「申し訳ない」

「いえ。こちらが、先ほどご連絡いただいた患者のご家族ですか」

 田代が直人へ目線を向けると、彼は意外そうに眉を上げて、「ちゃんと話は通してたのか」と薄ら笑いを浮かべた。

「お前のためではない。ただ……子どもに罪はない」

 雪臣の言葉に、直人は乾いた視線を返すだけだった。

 田代はひとつにまとめた長い髪を肩の後ろへ払い、直人を見上げた。

「氷室さんからお話は伺っています。医師の田代沙耶です。本日、奥様も私が診察しました。検査の準備はできていますが、先に奥様のお顔をご覧になりますか?」

「まさか。その間にルリカになにかあったらどうする。どうせ珠希とはもう終わりだ。御託はいいから、早く診ろ」

 センターの中へ進んでいく直人の背を、田代はまっすぐ睨んでいた。やがて彼女は開いていた手のひらをぎゅっと握りしめ、低い声で告げる。

「その選択を、いつか後悔しないといいですね」

 その言葉が直人に届いたかは分からない。

 吹き抜けた風が、雪臣と田代の髪を揺らした。直人に対する憤りは、どうやら彼女も同じらしい。直人と女の関係は知らないが、伴侶である珠希を無慈悲に扱うその価値観とは、相いれない。

「珍しいですね。ずいぶんと目が据わっていらっしゃる。怒っているんですか、氷室さん」

「いえ」

「そうですか。私は今、とても怒っていますよ」

 田代が雪臣の顔を見上げる。

「……ここへ来る前に、珠希さんの様子を見に行きました。氷室さんには話して構わないと、ご本人から伺っています」

 田代はそう前置きして、抑揚のない声で続けた。

「ご主人のことも相談しましたが、彼女は『子どもに罪はないから、しっかり診てあげてください』と頼んできました。ですから私は、彼女の願いを受けて診察するつもりでいます」

 そっと目を伏せた田代の表情から、やるせなさがにじんでいた。

 雪臣は、田代と初めて会った日のことを思い出す。産婦人科は、生まれてくる子と幸せに出会える場所――その瞬間に立ち会いたくて、この科を選んだのだと彼女は話していた。

「それから、ご主人にはまだ妊娠を打ち明けていなかったので、流産のことも口外しないでほしいと言われました。周りに心配をかけたくないそうです。……そういう人なんですね、彼女は」

 田代は雪臣に会釈し、センターへ向かって歩き出した。

「ですから氷室さんも、今回の流産については、できる限り彼女の意思を尊重してあげてください」

 雪臣はもつれる足で、離れていく田代の背に向かって一歩踏み出した。耳元のサファイアのピアスが、かすかに煌めく。

「タマ……いや、珠希さんに次の回診で伝えてくれ」

 雪臣は一度言葉を切り、杖を握り直した。

「明日の十一時、大学近くのユイット珈琲で待っている、と」

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